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文集

2014年9月 死ぬことと生きること

栃木市 箕輪 均

 私は宗教家ではない。もとより宗教家になりたくもない。しかし今回のテーマについて述べると自然に宗教家になってしまう。なぜならこのテーマは結局最後の最後は非論理的直感に基づいて信じるか信じないかになってしまうからだ。人曰く『死後の世界は果たして存在するのかそれは誰にも証明できない』と。まさにその通りであるから死後の世界については各々が信ずるところにしたがって各自語ることしかできない。この死後の世界についての信仰を本気で語った瞬間その人はある程度宗教家になってしまう。私はこれより自身の信仰を語る俄宗教家になろうと思っている。そのような考え方もあると聞いてくれれば嬉しい。

( 実はこのテーマは私がかつて編集委員会に投げたものだ。以前から我が医者仲間たちは死後の世界についてどう思っているか訊いてみたかったのである。議論論争がしたいのではない。皆が本当はどう思っているか知りたいと、全体の俯瞰はどうなのかと思ったのである。以上のような経緯でまず私が話すのが礼儀だろうと思う。)

私は死後の世界はないと信じる。天国も地獄も極楽も浄土もない。輪廻転生も前世も後世も未生も後生もないと信じている。あるのはこの意識と今だけであると確信している。未来は不確定性故に誰のものでもない。過去はもう変更できないものであり今だけがこの意識に属している。今だけが自分のものであると思う。限局的に今に関してだけ自由意志が存在する。

今私は死後の世界について語り同時に生について語った。 そのことからもわかるように死ぬことと生きることは表裏一体お互いがお互いを規定する必要十分な関係にあるのだと思う。死後の世界はないと信じるということは自分には今しかないという確信と同値である。

死はこの意識の消滅、完全に永久に意識がなくなること。そして同時に生きているときの一切の価値感情が消滅することを意味する。私という意識が消滅したあともその後を生き続ける無数の意識は存在し、様々な価値感情も存続するだろうが、消滅した私という意識は絶対的無・ゼロとなる。この意識の生じ存在し続けた有機のメカニズムは物質として原子として素粒子として宇宙に終始帰属しているがそれはほんの一瞬、私の意識のステージとなり、ステージとしての寿命が尽きたとき直ちに崩壊し意識もまた消滅する。そのようなものとして私は生と死を語りたい。

何故このように信じるに至ったか,それは第一にPCに接触することがとても多くなったことと関係していると思う。人間の脳という有機メカニズム上の電気的生化学的反応とPCの電子的活動はどこか似ている。そして第二に私が受けてきた医学教育や近年めざましく発達した脳の生理学・生化学・解剖学が指し示すものを類推したからだ。この類推は信仰というより確信に近い.直感的というより論理的だ。

失礼は承知でいわせてもらうが上記のことどもに拘わらずなおキリスト教や仏教に帰依し続ける医者たちが存在するのは私には不可思議である。その知識理解に反してなお信仰を保ちうるのはもしかしたら上に述べた死生観に救いがないからなのかもしれない。死後の世界が存在するというのは死の恐怖を和らげまさしく救われた思いがするのだと思う。そしてしがみつきたくなるような信仰なのだと思う。

こう考えたときイスラム教やキリスト教そして仏教が信じられないほどの一大虚構なのだと私は確信してしまう。フランスやイタリアのあの壮大荘厳なカテドラルが示すような美的大虚構である。教義も建築物も教団組織もこの上ないほどの美と力強さを示すけれど根っこの根っこに人類がしがみつきたいからしがみついた天国地獄極楽浄土の信仰がどっかと居座りこの壮大な構築物の強固な土台となっている。古来多種多様な無数の民族がこの地球上に生まれその各々がみな多種多様な独得の死後の世界を持っている。各民族特有のoriginalityといっていいほどのもので実に多様であるが、共通する根っこは死後の世界があると信じると死の恐怖が和らぎほっとするからその信仰に皆がしがみつくということだ。三大宗教は実はこの普遍的な人間的感情の上に成り立っているわけだ。

人生をしくじったもの、早くして死の病の冒されたものにとって前世や後世,天国や極楽がないと信じることは本当に救いのないことだ。どうしようもない絶望にさいなまされることになるだろう。しかしそのものたちにも意識ある限り今はある.だから今を生きろ!それしかない、そう言って励ますことは酷だろうか。後世や天国を思うほうが楽であるし救いがあるが、それは正しいことなのだろうか。真実は常に辛口なのだと思う。

死はこの意識の消滅、完全に永久に意識がなくなることという信仰は一見救いがないと思われがちである。しかしよくよく考えてみればそういうことではない。この地球上に住む人間は全く完全に時期こそ違え全員死ぬ。これは否定するものなき真理である。そして死の瞬間すべては平準化する。歴史的偉人も凡々たる市民も.凶悪な犯罪者もマリア・テレザも,長命者も幼くして病死事故死するものも、この世の贅沢栄華を極めた富者も今食べるものに窮する貧者にも死は平等に訪れる。そして死ぬ瞬間すべてはゼロという完全無欠な平等にいたる。 一方、生命にとって生存競争における勝ちたいという強い感情が生きる支えとなっていることも間違いのないことである。これは生命の原則・真理と思われるのが、この勝ちを最善とする価値感情は必ず多数派といっていい負け犬・負け組を生む。そして少数の勝ち組を生む。 死ぬ瞬間すべてはゼロとなると悟ることは負け組にとっては大いなる救いとなる。平等に訪れる死・ゼロを思えば負け組は勝ち組に完爾と笑いかけられる。結局おなじことだったねと。勝ち組には謙虚さをもたらし、勝ち得たものがどれほどのものか吟味せざるを得なくなる。そしてこれほどの努力の果てに手にしたものの多くが一瞬で失われることを知る。

ちなみに後世に残る作品・偉業というのは確かに存在するが、それが人類にとってどれほどの価値を持とうと死にゆくものにとって結局はゼロである。ただし自分の仕事を味わえなくなるとしても、今なお生き続ける者達にとって価値あるのでればすべて良しとする気持ちは厳として存在する。そしてこの気持ちは勝ち負けの彼岸にあると思う。勝ち負けを超えたところに存在するこの気持ち・感情はすなわち「愛」とよばれるものであるだろう。

一方,死ぬ瞬間すべてはゼロとなると悟ることと地獄は存在しないと信じることは人類の存続を脅かすような凶悪な犯罪のその実行を促す力があると思われる。詫間守という死刑囚を覚えているだろうか。大阪の附属小学校に乱入し刃物で複数人の子供たちを殺傷した人物である。彼に関する報道から知る限り、彼はひどい負け組・負け犬であった。そしてすべてが御破算となる死を望んだ。彼は死ねばゼロであると信じていたと思う。さらには地獄などあるわけがない、どうせ死ぬのなら思い切りしたいことをして死刑になって死んでやると彼は思い実行した。彼が思い切りしたかったことは金にも才能にも恵まれた子供たちを殺すことだった。法廷で彼は有罪を認め死刑を求め続け日本の裁判としては異例な早さで死刑執行となった。彼を罰するには死を持ってあがなわせるのでなく長く生かして恥辱を拷問のごとく味あわせ続けるのがよかったのかも知れない。しかしそれはひどく残酷で非人道的で愛のない行為といわざるを得ない。詫間に対してすら愛を持って臨むのなら望みどおり死刑を与えることがよかったのだと思う。更に振り返るならば詫間には愛するものがいなかったことそして愛してくれる存在もなかったことに気付く.愛に縁遠かった詫間は生きる喜びがなかったに違いない。愛されることも愛することもないこの人物が望んだことはひたすら自己の快感のみを追究することであった。その結果あのような非人道的な行為におよんだのだと思う。

ここでイスラム教徒のテロやキリスト教徒十字軍の行った歴史的残虐行為のことを考えたい。天国があると信じることがこれらの行為の実行のバックボーンになっている。このテロや残虐行為で自分は天国に行けると信じて行っている。自分たちは神の指示した正しい行為を行っていると固く信じて勇気を持ってテロおよび残虐行為に邁進するわけだ。神が指示したと教団的上位者がいうからそれが正しいと鵜呑みして、真に正しいかを考えることはほとんどしない。論理的に正しいから正しいという理性の世界ではない。ただひたすらに信ぜよ信じることができないなら地獄行き信じられるなら天国行き—このやり方は脳みそが腐敗している、あるいは大脳が存在しないとしかいいようがない。支配階級が信仰を言葉巧みに利用したというのが本当だろう。しかしイスラム教自体にキリスト教自体にそのようになってしまう腐敗していく堕落していくメカニズムがあると確信する。先に述べた死ぬ瞬間すべてはゼロとなると悟ることと天国はもちろん地獄は存在しないと信じることに凶悪犯罪を促す作用があるようにである。

すなわち宗教的あることは実はひどくこわいことなのだと悟らざるを得ない。そして宗教的であるためには「何が正しいのか」というもう一つの基準が必要なのだと思う。死後の世界や神が存在するかという誰にも答えを出せない問いにどう答えるかはさておいて今現に存在する人類世界にとって何が正しいのかという基準が必要なのだ。何が正しいのかという問いに対する答は実に多様だと思う。その多様性を個々に論じるのはやめておく。ただ個人的に気に入っていて正しいと確信している考え方が一つある。それは以下のようである.
—-『あなたがやろうとすることを世の中のすべてのひとが行ったなら世界はどうなってしまうだろうかそう考えてすべての行為の選択をせよ』—–
というのである。20世紀半ばの実存主義の考え方である。これはいいと直感的に思う。この考え方を実行するならまず判断を誤らないで済むように思う。別の言い方をすると人類の生物としての存続と現に人生を生きるものたちの幸福を考えて行動を選択するのがいいということである。この実存主義の考え方は21世紀において実は既に常識であるのかもしれない。世界のマスコミの主流のよって立つ基準はここ四半世紀ずっとそこにあるように思うからだ。

議論はつきないどころの話ではないが、ここで話を変えて私たち日本人の死生観についてすこし考えてみたい。歴史学者でない私にもわかることだが,日本人の死生観に最大の影響を与えている思想は『侍の道』即ち『武士道』だと思う。君主のため家名のため如何様に死すべきかを考え、行住坐臥それを意識して日常生活を律していく。私は切腹を美とは思わないのであるが、如何に死すべきかを思いそのことによって今を生きていく様は見事だと思う。君主や家名・家族に対する愛ゆえに自分の命が彼らのために役立ったことを喜んで死んでいく様はよく生きた・十分に生きたといってよいのではないだろうか。日本には仏教や儒教やキリスト教がはいってきてはいるがこの武士道の精神はそれらと一線を画している。今勝たんとして刀を振るうとき死後の世界は顧慮されない。今を生きることに手一杯精一杯であると思う。今がすべてというのは上述した私の信仰に近似していると思う。すなわち『あるのはこの意識と今だけであるという確信』にである。今を第一に、前世も後世もない現世を何よりも大事に生きていくというところが『武士道』と私の信仰との共通点である。というより私の信仰は『武士道』の歴史的変遷の一末端なのかもしれない。また時間軸を逆に見て、私の信仰もその一例であると思われる科学がもたらした物質主義の世界観・人生観と鎌倉室町時代あたりから生まれ来た『武士道』はうまが合うのかもしれない。

沖縄と日本本土との間に奄美群島という島々がある。日本本土から移り住んだ人々とその文化が琉球の人々やその文化と接触し混じり合ってきた場所だ。ここには『武士道』が生まれる遙か以前の万葉の頃の日本文化が根付いている。それはシマ唄や様々な風習とでつい最近まで連綿と保たれてきた。だから奄美には古き日本人の死生観が宿っている。奄美における死後の世界はかなり曖昧だ.常世・黄泉的世界にはあまり触れられていない。ネリヤカナヤという死後の世界らしきものがあるがこれは本土では竜宮城に化けている。死後の世界は曖昧だが奄美には独得の風習が長く保たれてきた。それは風葬と洗骨である。むかし奄美には火葬はなかった。死ぬと人里離れた場所・離れ小島などの風通しのいいところに安置する。1年を経て白骨化した遺体を回収しそのとき奄美の碧い海で洗って納める。帰っては墓所に入れるが年1回取り出して家族の手で洗うのである。原始的だなどといわないでほしい。私はこれ以上に強烈に故人を偲ぶ方法を思いつかない。今なら沢山の画像・動画で故人を忍ぶところだろうが、その人が死んでいること、そして今どうなっているのかを示すに洗骨以上のものを知らない。肉の身に死は訪れ、その意識・心はその身を去って消えていった。その人のよすがとして骨は残り、この上なき形見となる。素朴で純粋な心根が浮かび上がってくる。暖かく優しい。死の訪れを穏やかに受け入れ自分が自分の身がどうなるかを知っている。奄美にはよい死に方とよい偲び方がある。これを現代風にしたらどうなるだろう。想像してみる。自分が死んだら火葬に付し遺灰は自然に帰し遺骨は納骨堂に納めてほしいと思う。納骨堂はできたら庭先の大きな木の根もとがいい。そして年1回家族の手ずから遺骨の状態を検分してほしい。これがおじいちゃん,ひいじいさんの骨だよと孫・ひ孫に示しながら………。 本当はすこし肉の名残があるほうがいいけれど贅沢は言うまい。

この段をまとめる。今という時に眼前の世界に集中する傾向の強い日本人にとっては、唯一神の意志によって営まれていく幻想天国一大構築または幻想地獄一大構築や仏教の大宇宙のreincarnationよりも,八百万の神のほうが真理に近いのだと思う、一挙に一億kmをジャンプするようなただ信ぜよとされる教義より、今眼前にある現象に八百万の神を感じる方が合理的で、誰にも納得がいくという点で科学的ですらある。こう考えてくると先に述べた私の信仰はもしかしたら類縁類似者を含めるなら日本人の多数派なのかもしれない。

私は20年ほど前から確信していることが一つある。それは人間はただひたすら自分のためにだけ生きるということは絶対できないという確信だ。自己実現するために生きるということが近代個人主義の中核となる真理ということになるだろうか。だがよく考えてみるとこれが真理だと誰が決めたのか、悟ったのか。デカルトだろうか、ルソーだろうか。集団主義や全体主義に対する批判思想としては意味があるに違いないが、いずれにせよここにもとにかくこれが真理だから信ぜよという飛躍的な所がある。何ということはない、近代個人主義はかなり宗教的なのである。私には若かりし時曲がりなりにもこの近代個人主義という宗教を信じて生きた5年ほどの時がある。そこで悟ったことは、無理だできない、こんなふうに生き続けたら自分は気が狂うしかない、狂わなかったとしても奇人変人の類にしかなれないということだ。個性的だとほめられても本人が不幸なのだから話にならない。私がアジア人であることも関係していると思われるが、少なくとも私にとって近代個人主義は人を幸せにするものではない。ではどうするのがいいのか。私はこう思う。人は2割から3割は自分のために生きるのがいい、だが7~8割は家族や友人さらには社会・国・民族・世界・地球のために生きるのが自然だと。家族や友人への愛・家族や友人を愛することは生物個体としての人間における勝ち負けの彼岸にある。さらには死と生の彼岸にあると思われる。家族や友人への愛が満ちるとき我々は人生の勝ち負けに対するこだわりを越えることができる.家族や友人を愛するとき我々は死への恐怖を忘れ生きる喜びに満ち死と生を越えた存在になることができるのだと思う。

こんなふうに結論づけて満足している私に遅れてやってきた知識がある。それは有機のメカニズムであるオキシトシンのことである。昭和63年医学部卒である私にとってオキシトシンは子宮収縮ホルモン・出産と後産のホルモンである。さらには授乳ホルモンである。しかし私が知らぬ間に話は進んでいた。オキシトシンは視床下部室傍核・視索上核で合成され下垂体後葉から分泌されるわずか9個のアミノ酸からなるペプチドで哺乳類に特徴的なホルモンである。新知見の始まりは授乳によるこのホルモンの飛躍的な分泌量の上昇であった。これに伴い多くの母親は強烈に母性に目覚める。更に判明してきたことは視床下部の神経細胞から大脳辺縁系の扁桃体に枝がのびており、それらの部位のオキシトシン受容体を介して我々の警戒心を解除する。また同じく大脳辺縁系の側坐核に枝を伸ばし受容体を介し大脳報酬系として我々に快感をもたらす。結果としてそれらは我々に無条件な信頼感をもたらし、信頼のホルモン(厳密には化学伝達物質)・愛情のホルモン・絆のホルモンとして作用する。結果として現代社会の様々なストレスの本質的解決となる。血圧の上昇を抑え心臓の機能をよくするし、またどんなに高齢になっても分泌は已まず生涯高値を保ち続けるなら長寿効果がある。男性にも多量のオキシトシン分泌があり父性を形成する。オキシトシンはスキンシップで分泌を増すが、実は勇気といった理性の絡んだ感情でもまた分泌を促される。勇気を持つことと人のために生きようと決意することが様々なストレスに対する最高の解決を我々にもたらしてくれる。ここに述べた勇気を持つことと人のために生きようと決意することは紛うことなき我々の自由意志である。我々の選択である。また感情に具体的な形を与えるのは我々の理性である。隠したままにもできるし最高の形を与えることも最高の形を勝ち得る努力もできる。

人工知能に感情をもたらすのは容易な技ではないし、この自由意志という大脳前頭野の仕事を人工知能で可能とするのもたいへんなことだ。だから我々が今現に持っている有機的メカニズムはロボットの比ではないのである。仕組みが多少わかったとしても極めて深遠で複雑なのはいよいよ明らかなのである。もし感情と自由意志を持った人工知能が現れたときにはそれは新たな生物・生命の誕生といってよい。この地球に生命が生まれたのと対等な奇跡だと思う。

このオキシトシン系の存在は我々が自分のためより多く人のため生きる存在であることを示している。くりかえすが、家族や友人へのさらには社会・国・民族・世界・地球 への愛は死と生の彼岸にあると思う.家族や友人もろもろへの愛が満ちるとき我々は死への恐怖を忘れ生きる喜びに満ちて死と生を越えた存在になることができるのだと思う。

ガリレオによって天動説が終わりを告げダーウィンによって人は猿・動物の仲間になった。(今となっては動物に実に豊かな感情があることを我々は知っている。) 今度はとうとう神と天国・極楽と地獄,輪廻転生が終わろうとしているのではないだろうか。ガリレオの発見,ダーウィンの発見が真に受け入れられるのにはその後の科学的知見の集積と半世紀以上の年月を要している。いま大脳生理学・生化学.解剖学等の進歩と天文学・宇宙物理学の進歩は神の存在や・天国地獄の存在・魂の不滅にほとんど否定的だ。まだ最終結論がでるには至っていないが、その方向性は現に明らかである。思えば二つの一神教は実に多くの死を我々にもたらした。この二つが真に救った命より奪った命のほうが絶対に多いと思う。また仏教はこれに帰依するならこれほど現実逃避ができる宗教は他にないのではあるまいか。極楽浄土を求め,転生して後生で幸せを得たいなどという脆弱な心では生命としての人間の存在が危うくなる。20世紀の末あたりから欧米社会ではキリスト教が次第に形骸化していった。バチカンは世界遺産となり多くの教会も歴史的遺構となった。ユネスコはキリスト教の形骸化に大役を買っていると思えてくる。そして今イスラムが揺れている。現代のドバイの繁栄をアラッーの恵み・思し召しと思う人は少ない。あれはラスベガスのような典型的アメリカ物質文明である。イスラム原理主義は現代の科学と物質文明に真っ向から反抗している。まるでまだ天が動いていると信じ進化論を全く認めないごくごく少数のキリスト教徒のようだ。それがいいとは我々には云えないがイスラム教徒のほとんどはイスラムの戒律よりドバイの繁栄を求めている。このインターネットの時代の情報の質・量を思えば、早晩世代が替わるにつれイスラム教も形骸化していくのは必定だと思う。我々のこの人間世界は一刻も早く既存の宗教という自縛(呪縛ではない)から解放されるべきだと思う。三大宗教などの既存の宗教が形骸化しこれらから人類が解放されたとき人類に一大転機が訪れることになるのだろう。既存の宗教が形骸化した後の世界に対し、我々日本人ははじめから適合した人生観・世界観を持っているのではないだろうか。もちろん人それぞれではあるが……。

人間の意識はそれらが生まれ存在することとなった有機のメカニズムの上に現れたsparkのようである。この有機のメカニズムとsparkの持つ時間は宇宙時間的には限りなくゼロに近い。一瞬の有であった後完全無欠な無となるわけだが、その生まれて消滅するまでの一瞬の時間は限りなくゼロである。そして意識のよって立つ肉体という有機のメカニズムは物質として原子として素粒子としてエネルギーとして宇宙に終始帰属している。何かから何かに変化するわけではない。終始大宇宙の一部である。生命としてこのsparkは肉体とともに次のsparkを生むことで存在し続けているが、sparkであり続けることsparkをつないでゆくことは実は宇宙のエントロピーの法則に反するものであり、反するが故にこの有機のメカニズムは老化し寿命となる。生命が生まれ人間の意識が生まれるまでの40億年ですら実は宇宙時間的には殆どゼロである。生命および意識はこの大宇宙・原子と素粒子とエネルギーの想像の埒外の大奔流の上に存在するかすかな揺らぎでしかない。でもそれはゼロに近いかもしれないが絶対ゼロではない。微小などというのも適切でない小ささを持った存在であるが、私はこの存在をその内在する仕組みにしたがってよしとし愛おしんでいきたい。これが私の選択である。意識の完全消滅した後,肉体は意識のステージとしてのまとまりを失い元素に帰って行く。元素は全くの無記名であるが、それでもこの身を形作っていた元素・分子・原子が本来の姿に戻って愛する地球に帰っていくと考えるのは嬉しい。

私は風となり 遙かなる海を渡り
波頭に白きウサギを追う
幾重にも連なる丘の上の草をそよがすのもいい

私は水となり 空と海とを行き来し
水面に砕け散る雷(いかづち)をうむ
そこは魚たちの群れ集う漁場(りょうば)となるだろう

私は土となり 大地を覆い
美しき木々の根を支えその一部となる
千年の木々万本の森億の枝葉(えだは)となって山を賑わそう

そんなふうに考え想像する方が天国・地獄を思い考えるより遙かに清々しい。

2014年9月 箕輪 均 記